

JR高槻駅にほど近い当地区界隈には、由緒ある古社や多くの史跡があり、豊かな歴史・文化が息づいています。
遠い昔から京・大坂を結ぶ交通路の要衝にあったこの地の歴史を遡り、次代に伝えたい風土・文化について考えます。
■行き交う人々で賑わい、豊かな文化が育まれた江戸時代

陸の街道と水の街道の拠点として 大阪と京都の中間にあり、北摂の山並みと淀川に挟まれた城下町。高槻は、陸路の西国街道、水路の淀川という二大交通路の要衝として、古くから人や物資の往来で賑わいました。西国街道(国道171添いの旧街道)は、京の伏見から西宮を結ぶルートで、江戸時代には、大名の参勤交代や、寺社詣に出かける庶民にも利用されました。芥川宿には、今も町並みに往時の面影が残っています。一方、淀川もまた、西国街道と並ぶ交通路として重要な役割を担い、江戸時代には、乗合船である「淀川三十石船」(伏見と大坂・八軒家を1日2往復)をはじめ、淀船、伏見船などが、人や物資を乗せて往来しました。当時、三十石船の乗客相手に漕ぎ寄せて、ゴボウ汁や酒などを売った、何とも愉快な小船が、「東海道中膝栗毛」にも描かれている「くらわんか舟」。その発祥地が高槻(柱本)だったといわれます。富田の酒、山間部の寒天と並び、当地区に近接した古曽部で生産された焼物「古曽部焼」も、銘品の一つとして京・大坂へと船で運ばれていきました。

キリシタン大名・高山右近と城下町 高槻は、戦国時代から歴史の表舞台に登場し、江戸時代には3万6千石(高槻藩永井家)の城下町として、一時は西国支配の拠点にもなりました。14世紀に足利尊氏の命によって入江氏が入城、その後、織田信長の武将和田惟政(これまさ)が城の基礎を築きます。そして天正元年(1573年)に高槻城主となったのが、キリ シタン大名として知られる高山飛騨守(ひだのかみ)・右近父子。父の引退により城主となった高山右近は、本能寺の変の後、炎上したセミナリオ(神学校)を安土から高槻に移すなど、キリスト教の布教に努めました。上宮天満宮(後述)の広場も、右近により布教の場として使用されたという記録(ルイス・フロイスの書簡)が残っています。のちに右近は、秀吉により明石へ移封。キリシタン禁教令により苦境に陥り、最後はマニラへと追放され、その地で生涯を閉じました。

歴史と文化の香り漂う上宮天満宮とその周辺
本事業でも、豊かな緑と歴史的背景に注目を寄せている上宮天満宮は、太宰府に次いで建てられた由緒ある天満古宮です。祀られているのは、菅原道真(すがわらのみちざね)、野見宿弥(のみのすくね)、武日照命(たけひなてるのみこと)。正暦4年(993年)、道真の霊を鎮めるため太宰府に赴いた菅原為理(ためまさ)が、京への帰途、急に牛車が動かなくなったこの場所が、菅原氏の祖先とされる野見宿弥ゆかりの地であったことから、社殿をつくることに。北野天満宮より古いため、上宮天満宮と呼ばれるようになりました。原生林に囲まれ、静謐な雰囲気に包まれた4万平方メートルの境内。2月25日、26日の天神祭に、多くの
参詣者が訪れるのは、昔も今も変わりません。
また、この古社のある丘陵一帯には天神山遺跡が広がり、昼神車塚(ひるがみくるまづか)古墳など、5〜6世紀の前方後円墳があります。多数の土器や石器が発掘され、弥生時代から人が暮らしていたことが明らかになっています。さらに、この辺りで文化の香りを色濃く感じさせるのが、能因(のういん)法師と伊勢姫の存在です。能因法師は、平安後期の歌人で中古三十六歌仙の一人。出家後は古曽部を拠点に各地を旅し、多くの歌を残しました。一方、能因がその歌風を慕ったといわれる伊勢姫は、平安前期の女流歌人で小野小町と並ぶ三十六歌仙の一人。伊勢寺は、伊勢姫晩年の旧居跡で、境内に伊勢廟堂があります。古曽部一帯は、古曽部焼の里であるとともに、2人の歌人にゆかりある地としても広く知られています。
■明治〜大正、昭和へ。都市化への道を邁進した大高槻町時代

かつての城下町、宿場町、周辺の村々が合併して大高槻町に
明治4年(1871年)7月、高槻藩は高槻県に。同年11月には大阪府に編入され、明
治31年(1898年)、高槻町が誕生します。昭和6年(1931 年)1月、高槻市名誉
市民の磯村弥右衛門氏らの尽力により、三島郡高槻町、芥川町、清水町、磐手
村、大冠村の5町村が合併。この統合によって、町の人口は 2万人を超えるまで
になり、大高槻町時代と呼ばれる活気あふれる時代が訪れました。
高槻が急速に都市化への道を歩み始めるきっかけとなったのは、昭和3年(1928
年)の新京阪鉄道(現・阪急京都線)の開通でした。それまで、大阪から高槻の
方角は鬼門に当たるとされ、財界からの投資が敬遠されていましたが、その考え
を打ち破り、新京阪鉄道が開通すると、便利で美しいロマンスカーは、人々の心
を魅き付けました。同時に住宅開発も進められ、新京町商店街、大阪医学専門学
校と付属の三島病院、近代的な工場も相次いで出現、町はいよいよ活気づいてい
きました。大高槻町誕生の年、新京阪鉄道の急行が高槻駅に停車するようになっ
たことも、町の発展に拍車をかけました。
祝賀ムードに包まれる中、大高槻町結成を記念して選定された高槻八景に、当開
発エリアの近くでは、「上宮天満宮の花雪」、「能因塚の翠煙」が選ばれていま
す。さらに、高槻十勝には「伊勢寺の遅桜」が選定され、当時から景勝地として
注目されていたのは、興味深いところです。

明治9年に早くも開業された(国鉄・現JR)高槻駅
JR高槻駅は、明治9年(1876年)7月26日、国鉄向日町駅〜大阪駅間の開通と同時
に、唯一の中間駅として開業。旅客と貨物の取り扱いが開始されました。京都〜
大阪〜神戸間での鉄道敷設時、高槻城の資材がこの駅から運び出されたといわれ
ます。また、明治7年(1874年)に取り壊された高槻城の城石が、鉄道敷設に利
用されました。
明治10年(1877年)に、京都まで延伸されますが、当時は全線が単線で、ちょう
ど中間地点である当駅で対向が行われたそうです。快速(急電)が停車するよう
になったのは、京都―大阪間複々線が完成した昭和32年(1957年)と、少し後の
ことになります。
高槻駅は、もとは当開発エリアである北側、上宮天満宮の方が正面でした。秋に
なると、駅前には、「松茸狩り案内所」のテントが並び、のどかな光景が広がっ
ていたようです。
■高槻から世界へ。ユアサとともに歩んだ歳月

当事業の計画地は、長年湯浅電池(現ジーエス・ユアサコーポレーション)の工
場があった敷地です。
大正7年(1918年)、この地で産声をあげ、世界の総合電
池・電源メーカーに成長した同社が、会社創業と同時に新工場を建設するにあた
り、この地(当時は三島郡磐手村大字古曽部)を選んだ理由として、
という5点を挙げ
ています。大正14年(1925年)には高槻工場内にエボナイト工場、昭和2年
(1927年)にアイアンクラッド工場、10年(1935年)には自動車用蓄電池専用工
場を新設するなど、生産能力の拡張・整備を行い、12年(1937年)には、創業時の2倍以上の規模になりました。14年(1939年)には、
同市高西町(現城西町)に乾電池工場を移転。その後も変遷を重ねていきますが、
高槻工場は、同社にとって最重要拠点の一つであることに変わりはありませんでした。
同社が創立された大正7年頃、界隈は未だ純農村地帯でしたが、時間の経過と
ともに同社の工場周辺にユアサ従業員の日常生活に関連した商店が徐々に増えていきました。大高槻町時代の盛況とと
もに同社も発展して行きました。

高槻市の人口が急速に増加し、国鉄(JR)高槻駅前再開発の気運が高まってきたこ とに対応して、同社では 昭和44年(1969年)7月、まず研究開発本部が、続いて46年(1971年)6月、本社 事務所がJR高槻駅前(当開発エリア)から城西工場内に移転しました。本社 の移転に際しては、情報化時代に備え、東京都内、大阪市内への移転も 検討されましたが、創立の地であり、ともに成長の道を歩んできた高槻市からの転出 案は見送られることになったようです。研究開発本部の城西への移転を機に、 JR高槻駅北側玄関前に面する同社の敷地を、駅前再開発のため、売却することが決 定されました。 創立以来の欧風建築や格調高い建物は惜しまれつつ姿を消しましたが、土地売却と いう決定は、 大阪の大衛星都市・高槻にふさわしい街づくりに、大いに貢献することになりまし た。

平成4年(1992年)、同社は、株式会社ユアサコーポレーションに社名変更。平成16年(2004年)、GS (日本電池)と経営統合、株式会社ジーエス・ユアサコーポレーションの名で世 界を舞台に活躍していることは、その基礎を築き、育んできた高槻に とっても誇りと 言えます。